映画「レボリューショナリーロード」

♪いいかい坊主 教えてやろう 上目使いでクライドが言う
♪ブタの自由に慣れてはいけない もっと人は自由なのだ


最近聞き返してる真島昌利の「こんなもんじゃない」。


そして、先日観た「レボリューショナリー・ロード」。


それは、どちらも「自由」についての物語。


「本当の自由」とか言うけど、そりゃなんだ?食えるのか、それ?
だいたい世間との折り合いはどうすりゃいいんだよ!
「世間」っつーのは、ちょっと言い過ぎた、ごめん。そもそも、この家族って言う社会の最小単位の中ですら、いったいどう立ち回れば、俺もお前も幸せな顔をしていられるって言うんだよ!


そもそも、映画も、歌も、小説も、その時の自分の状況(抱える問題)によって、受け取るモノはぐっと変わるという前提があるわけだが、最大限そういう意味で、映画「レボリューショナリー・ロード」は、家族持ち、もしくは、過去にその経験があるかないかで、随分印象変わるんだろうな。


ボクは既にサラリーマンではないし、カミさんは主婦オンリーで、才能の無い女優志願でもないんだけど、それでもしかし、多かれ少なかれ、身につまされるコトだらけだ。


女(女房)は、世界と対峙する悩みを一手に引き受け、説明することで世界から傷つけられるのが嫌なもんだから、一方的に口を閉ざす。(コミュニケーションを完全に遮断する)


男(旦那)は、世界と仲良くやっていきたいもんだから、コミュニケーションを最高にリベラルな態度として、一方的に喋り、攻撃をする。でも(世界の一部である)相手を傷つけたくないから本当のコトは言わない。


かつて日本じゃ「男は黙ってサッポロビール」で、「不器用ですから」なのが、美学としてもてはやされたワケだが、やはりそういうのは現実にはありえないからこそのファンタジーなのかしら。


監督サム・メンデスは、デビュー作の「アメリカン・ビューティー」から、つくり笑顔あふれる平和(peace)な世界の裏側に充満する「欺瞞」や「相互不理解」や「あきらめ」を描いてきた。「レボリューショナリー・ロード」の世界は1955年の米国だけれど、世界はきっと、当時からはたいして変わらずに続いてる。経済や、民族的な限界が、ドカンドカンとその醜い姿を現してきているが、社会の最小単位である「妻」と「夫」の限界はどう乗り越えられるべきことなのだろう。映画の中のフランクとエイプリルよりマシなのは、ココには愚者が居ないこと。愚者が居ないことで、問題を先延ばしにできるのだ。


そして、知らず知らずのうちに、補聴器のボリュームを互いに下げているのかもしれない。



映画「レボリューショナリーロード 燃え尽きるまで」 
http://www.r-road.jp/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89/%E7%87%83%E3%81%88%E5%B0%BD%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%BE%E3%81%A7