映画「かいじゅうたちのいるところ」

小三男子の「かいじゅうたちのいるところ」評。

★ネタバレだらけです。観た人だけ読んでね


映画「かいじゅうたちのいるところ」は、センダックの映画ではなく、スパイク・ジョーンズの映画でした。

荒々しくも、うっとりするほどに美しい画作り。無垢なカメラワーク。
画面と一体になった素敵な音楽
そして「ひとりぼっち」で居ることへの畏れとあきらめ。

なんといっても「かいじゅうたち」の存在感。
そこにいて(存在してて)、ぎゅうって抱きしめて、もふもふして、ケモノの匂いがしてる!

これらがあったおかげで、決してダメな映画ではなく、素敵な映画だったのです。
でもね、センダックの映画ではなく、スパイク・ジョーンズの映画だったのです。
それは絵本にあった、わくわくポイントがクリアされていなかったからだと思うのです。



【絵本にはこんなシーンがあります】
(じんぐうじてるお 訳)

すると、しんしつに、にょきり にょきりと きが はえだして、
どんどん はえて、
もっと もっと はえて、てんじょうが きの えだと はっぱに かくれると、
かべが きえて、あたりは すっかり もりや のはら。
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ひとつき ふたつき ひがたって、
1ねんと 1にち こうかいすると、
かいじゅうたちの いるところ
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そのとき、とおい とおい せかいのむこうから、
おいしい においが ながれてきた。
マックスは かいじゅうたちの おうさまを やめることにした。
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かいじゅうたちは ないた。「おねがい、いかないで。
おれたちは たべちゃいたいほど おまえが すきなんだ。たべてやるから いかないで。」
「そんなの いやだ!」と、マックスは いった。

★ちなみにこの場面の原書は・・・
But the wild things cried, “Oh please don’t go- We’ll eat you up-we love you so!” And Max said, “No!”


★この場面の映画版の字幕は
「食べちゃいたいくらいに好きだから行かないで」
(だったと思うのだけれど、セリフがどうなのかがわからん。誰か教えて!)
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絵本のなかでは、冒険のはじまりも終りも自分の部屋の中。
つまりは、少年マックスのあたまの中だったのが、映画ではマックスは家を飛び出し、母親は「飛び出した」事実を知っている状態になってしまう。

映画の中でのマックスは、海で1年と1日の旅はしていない
スープの匂いで母親を思い出すわけではない

かいじゅうたちは、マックス自身の中に住んでいるには、あまりにも性格が付きすぎている

スープの匂いどころか、マックスは「かいじゅうたちがすむところ」を投げ出して逃げ出す。なんの始末もせずに、いやんなって逃げ出す。
家に戻ったマックスは、家で待ってた母親のつくった食事を食べる。優しい眼差しで見守る母親のカットで終わって、なんとなく「いいかんじ」で終わってはいるものの、果たしてマックスって成長したのかな。何かを知ることができたのかな。そんな風には見えなかったのです。
絵本でのマックスは逞しくなったように見えたのに。

「かいじゅたちのいるところ」に、映画で描かれているような、こんなに「切ない思い」は期待していなかったのです。
王様になって、かいじゅうたちとの冒険がしたいのです。

自分の頭の中で繰り広げられる妄想に、切なくて寂しい想いなんて相容れないのです。
そういった現実的な「寂しさ」を思い出し、現実に戻りたくなるのは、現実の世界の感触や匂いを思い出した時なのです。

そんなワケで、映画「かいじゅうたちのいるところ」は、
「いい映画なんだけどね」と「・・・なんだけどね」が付いてしまいました。


ちなみに、実は一番じーんと来たのは、冒頭の映画会社のロゴにMAXの落書きがあったところだった。
コレがセンダックの絵本に住んでいるマックスなのだと。



参考:エイガ・ドット・コム「スパイク・ジョーンズ監督 インタビュー」
http://eiga.com/movie/53491/special/